哲学(フィロソフィア)とは、知(ソフィア)を
愛する(フィロ)という意味の言葉だ。
日本語でも、もともとは希哲学と言っていた。
意外に思えるかもしれないけれど、
知を愛するということは、知性を愛する、
ということではない。賢くなる、頭がよくなる、
そういうことのために哲学があるのではない。
哲学は知を愛するのであり、
それ以外の何ものもとくに愛さない。
では、ここで言う知とは何か。
それは知識だろうか? そうとも言える。
いろんなことについて知ること、
それを愛することが哲学である、
そういう気もする。
しかし、ほんとのところ、
哲学が対象とするのは
「知識(connaissance)」とは呼べない
ある何か、なのである。
知識ではない、哲学が求める知、
それは何だろうか。
しかも、それは、とくに頭をよくすることもない
ものである。そんなものがあるとして、
一体それは役に立つのだろうか。
知識は役に立つ。
知識は人生や社会や経済なんかを
豊かにする。とても役に立つものだ。
知性、あるいは頭の良さもやはり役に立つ。
学校や会社で成功する、あるいはビジネスで
成功するのに頭の良さは役に立つ。
ところが、哲学が探し求めるものは、
そうした意味では役に立たない。
それは何かについてはっきりした知識を
与えるというよりかは、より物事を混乱させて
みさせるものかもしれない。
そうしたことの探求に乗り出すのは、
知性的なことではなく、むしろ愚かなこと
なのかもしれない。
ところがしかし、知性によって探求される
ものでもない、そして知識として役に立つ
のでもない、哲学だけが求める知、
というのがあるのだ。
その知がどんなものであるのか、
これからそのことについて、少しずつ、
ゆっくりと語っていきたい。
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