2012年2月23日木曜日

哲学が求める知

哲学(フィロソフィア)とは、知(ソフィア)を
愛する(フィロ)という意味の言葉だ。
日本語でも、もともとは希哲学と言っていた。

意外に思えるかもしれないけれど、
知を愛するということは、知性を愛する、
ということではない。賢くなる、頭がよくなる、
そういうことのために哲学があるのではない。

哲学は知を愛するのであり、
それ以外の何ものもとくに愛さない。

では、ここで言う知とは何か。
それは知識だろうか? そうとも言える。

いろんなことについて知ること、
それを愛することが哲学である、
そういう気もする。



しかし、ほんとのところ、
哲学が対象とするのは
「知識(connaissance)」とは呼べない
ある何か、なのである。


知識ではない、哲学が求める知、
それは何だろうか。

しかも、それは、とくに頭をよくすることもない
ものである。そんなものがあるとして、
一体それは役に立つのだろうか。

知識は役に立つ。
知識は人生や社会や経済なんかを
豊かにする。とても役に立つものだ。

知性、あるいは頭の良さもやはり役に立つ。
学校や会社で成功する、あるいはビジネスで
成功するのに頭の良さは役に立つ。

ところが、哲学が探し求めるものは、
そうした意味では役に立たない。
それは何かについてはっきりした知識を
与えるというよりかは、より物事を混乱させて
みさせるものかもしれない。

そうしたことの探求に乗り出すのは、
知性的なことではなく、むしろ愚かなこと
なのかもしれない。

ところがしかし、知性によって探求される
ものでもない、そして知識として役に立つ
のでもない、哲学だけが求める知、
というのがあるのだ。

その知がどんなものであるのか、
これからそのことについて、少しずつ、
ゆっくりと語っていきたい。

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