2012年3月6日火曜日

誰しも自尊心を持っている

哲学は必ずしも知性的なものではないってことを前回話した。

では、具体的に、どんなことを哲学は話題にしているのか。


実はどんなことでも話題にするのだけど、ここではわかりやすく
とりわけ知性に関係ない話題をとりあげてみたい。

それは感情だ。


近代以降、つまりデカルト以降、感情ってのは
哲学で大きなテーマになってきた。

そのデカルトは『情念論』で
スピノザは『エチカ』第三部で
ヒュームは『人間本性論』第二部で
それぞれ感情について書いている。


どれにもとくに難しいことは書いてなく、
読めば誰にでもわかる内容だ。
(ただし翻訳は読みにくい)


憎しみは有害で、悲しみを伴うとか(デカルト)

喜びは人の活動力を増やし
悲しみは逆に減らすとか(スピノザ)

誰でも自尊心を持っているとか(ヒューム)

そんなことが書かれている。


ぼくは『人間本性論』のこんな一節にはっとさせらたことがある。


白鳥や七面鳥や孔雀の身振りや歩き方には、
彼らが自分を高く買い、他を侮蔑しているさまが見て取れる。
七面鳥や孔雀では、自尊心はつねに彼らの持つ美しさに
伴っており、それらはオスにのみ見られる。


この文章を読むまで、ぼくは動物が自尊心をもっている
ってことをあまり意識していなかった。

でも確かに、うちで飼っていた猫なんかは、
すごい間抜けな失敗をしたあと、なにもなかったかのように
その場を取り繕うことがある。

けんかに負けたオス猫なんかは心が傷ついたのか
そのあとずっとしょんぼりしていたりする。


つまり、多少なりとも賢い動物なら、自尊心を持っているのだ。
そう気づくと、人間誰もが持っている感情は
自尊心だ、ということがわかる。
だって動物でさえ持っているものだからね。


とまあ、哲学はそんなことを話しているわけだ。

何が言いたいかというと、哲学は世間で思われているような
何らかの思い込みみたいなものではなくって

指摘すれば誰もが「ああそうか」と思うような
そういうことを議論している、ということだ。

一見あたりまえのことでも、指摘されないと
気づかない、ということは案外多い。

というかそんなことばっかりだ。


哲学とはそんな当たり前のことを指摘して、気づかせる、
そんな役割を持っているわけだ。


せっかくなので、次回も感情について話してみたい。

2012年2月23日木曜日

哲学が求める知

哲学(フィロソフィア)とは、知(ソフィア)を
愛する(フィロ)という意味の言葉だ。
日本語でも、もともとは希哲学と言っていた。

意外に思えるかもしれないけれど、
知を愛するということは、知性を愛する、
ということではない。賢くなる、頭がよくなる、
そういうことのために哲学があるのではない。

哲学は知を愛するのであり、
それ以外の何ものもとくに愛さない。

では、ここで言う知とは何か。
それは知識だろうか? そうとも言える。

いろんなことについて知ること、
それを愛することが哲学である、
そういう気もする。



しかし、ほんとのところ、
哲学が対象とするのは
「知識(connaissance)」とは呼べない
ある何か、なのである。


知識ではない、哲学が求める知、
それは何だろうか。

しかも、それは、とくに頭をよくすることもない
ものである。そんなものがあるとして、
一体それは役に立つのだろうか。

知識は役に立つ。
知識は人生や社会や経済なんかを
豊かにする。とても役に立つものだ。

知性、あるいは頭の良さもやはり役に立つ。
学校や会社で成功する、あるいはビジネスで
成功するのに頭の良さは役に立つ。

ところが、哲学が探し求めるものは、
そうした意味では役に立たない。
それは何かについてはっきりした知識を
与えるというよりかは、より物事を混乱させて
みさせるものかもしれない。

そうしたことの探求に乗り出すのは、
知性的なことではなく、むしろ愚かなこと
なのかもしれない。

ところがしかし、知性によって探求される
ものでもない、そして知識として役に立つ
のでもない、哲学だけが求める知、
というのがあるのだ。

その知がどんなものであるのか、
これからそのことについて、少しずつ、
ゆっくりと語っていきたい。

2012年2月22日水曜日

はじめに

子供は、言葉を早く覚えます。
人がしゃべっているのを聞いているだけで、
子供は精確な発音ができるようになってしまいます。


ところが、大人はそうはいきません。
ぼくは日本語を教えた経験があるのですが
歳をとるほど新しい言葉は覚えにくく
発音も学びにくくなります。


つまり、子供の方が大人より優れているんです。
ちょっときつい言い方になりますが、大人になると
いったん覚えてしまったことが固定化してしまって
新しいことを学んだりすることが難しくなります。


言葉だけでなく、ものの見方や考え方もそうです。
一端身についた思考法や価値観を変えることは難しい。
子供のときには、少しずつ変えていっていたはずなのに。


同じことを別の言葉で言い換えてみましょう。
子供の時にはいろんな可能性をもっていたのに
大人になるとそれが選択されてきて、少なくなる。


子供の時には、無数の言語、無数の思考、無数の人生
それが可能だったのに、大人になるとそれぞれ
一つしかもてなくなっている、そういうことです。



けれど、こういった言い方には少し違和感を覚えることでしょう。
「大人になった今の方が、いろいろものを知っているし
子供のときなんかより圧倒的に豊かだ」
そう言いたい方もいるでしょう。



そのとおりです。


大人は無限の可能性の代わりに、具体的な人生をもっています。
それはもしかしたら、単なる可能性より豊かなものかもしれない。


でももし、大人の具体的豊かさと、子供の潜在的な可能性を
どちらも手にすることが出来たら・・・


もしも、大人になったいま持っている知識や能力を
その豊かさを保ったまま、
子供の時のなんでもありの可能性に
もう一度還元することができたら・・・


いまある有形のものを、無定型のかたまりに戻すように
シャッフルしてみたらどうなるか・・・


大人は子供の時に持っていた可能性を形にしているのですが
それをいったんバラバラにして卵のなかにつめこんでみる。

すると、なにがでてくるかは分からないものの、
そこにはいっているのはただの可能性ではなくて、
具体性と豊かさを備えたある未知のものになるわけです。

といっても、それはできあがったものではなくて、
まだなんだか分からない不完全なものです。
それはなんでもないものではなく、ディティールがある。
でも、それがどうつながりどう機能するのかは分からない。


もしも、大人になったいまでもそんな状態になることができたら・・・

ちょっと(というか、かなり)変なたとえですが、
そう考えただけでも、わくわくしてきませんか?

このブログは、そういう状態になるように
手助けをするためのものです。


なぜなら、
ぼくの考えるところでは、
それが哲学というものだからです。