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世界史のおさらい 各世紀のまとめ

紀元前4世紀 アレクサンドロス3世による遠征。 紀元前3世紀 始皇帝。前漢成立。ポエニ戦争開始。 紀元前2世紀 カルタゴ滅亡。グラックスの改革失敗 紀元前1世紀  カエサルのガリア戦争。オクタウィアヌスによる帝政開始。 1世紀 新。キリスト教成立。ヴェスヴィオ火山の大噴火。後漢の班超が西域諸国を制圧 2世紀 日本は鉄器時代に。ローマ帝国の領土が最大に。黄巾の乱 3世紀 カラカラ帝がローマ帝国の全自由民にローマ市民権を与える。八王の乱 4世紀 ゲルマン民族の大移動。五胡十六国時代。第1回ニカイア公会議でアリウス派の排斥。テオドシウス1世によるキリスト教国教化 5世紀 エフェソス公会議でネストリウス派が異端に。アッティラ。西ローマ帝国滅亡。メロヴィング朝成立。 6世紀 クローヴィス1世の「サリカ法典」。東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世。クラカタウ火山爆発。隋による中国統一。聖徳太子 7世紀 李淵。玄奘。ムハンマド。天智天皇 8世紀 トゥール・ポワティエ間の戦い。カロリング朝開始。アッバース朝。後ウマイヤ朝。安史の乱 9世紀 カール大帝。フランク王国の最後の分裂。黄巣の乱 10世紀 カロリング朝断絶。ヴァリャーグからギリシアへの道が完成。神聖ローマ帝国が成立(オットー一世)。藤原道長が内覧となる。 11世紀 ノルマン・コンクエストが起きて イギリスがノルマン人によって征服された。十字軍のはじまり。『源氏物語』 12世紀 十字軍国家が反撃を受け始める。12世紀ルネサンス。金と南宋が対峙。鎌倉幕府 13世紀 モンゴルの世紀。マグナ・カルタ成立 14世紀 ペストの大流行。南北朝時代 15世紀 コンスタティノープルの陥落。中世の終わり。コロンブス。レコンキスタの完了。ルネサンス。応仁の乱 16世紀 宗教改革(ルターやカルヴァン)。新大陸の銀による価格革命。世界史のはじまり。本能寺の変 17世紀 科学革命。ヴェストファーレン条約。イギリスの清教徒革命と名誉革命。絶対王政。東インド会社設立。大清国の成立。徳川幕府。 18世紀 産業革命。資本主義の成立。フランス革命開始。西欧諸国によるアジア進出とそれに伴う植民地戦争。 19世紀 ウィーン条約。国民国家の成立。ナショナリズム。帝国主義。列強の植民地争奪戦。明治維新 20世紀 ニ度の世界大戦。帝国主義の崩壊。冷戦。 こうしてリスト...

誰しも自尊心を持っている

哲学は必ずしも知性的なものではないってことを前回話した。 では、具体的に、どんなことを哲学は話題にしているのか。 実はどんなことでも話題にするのだけど、ここではわかりやすく とりわけ知性に関係ない話題をとりあげてみたい。 それは感情だ。 近代以降、つまりデカルト以降、感情ってのは 哲学で大きなテーマになってきた。 そのデカルトは『情念論』で スピノザは『エチカ』第三部で ヒュームは『人間本性論』第二部で それぞれ感情について書いている。 どれにもとくに難しいことは書いてなく、 読めば誰にでもわかる内容だ。 (ただし翻訳は読みにくい) 憎しみは有害で、悲しみを伴うとか(デカルト) 喜びは人の活動力を増やし 悲しみは逆に減らすとか(スピノザ) 誰でも自尊心を持っているとか(ヒューム) そんなことが書かれている。 ぼくは『人間本性論』のこんな一節にはっとさせらたことがある。 白鳥や七面鳥や孔雀の身振りや歩き方には、 彼らが自分を高く買い、他を侮蔑しているさまが見て取れる。 七面鳥や孔雀では、自尊心はつねに彼らの持つ美しさに 伴っており、それらはオスにのみ見られる。 この文章を読むまで、ぼくは動物が自尊心をもっている ってことをあまり意識していなかった。 でも確かに、うちで飼っていた猫なんかは、 すごい間抜けな失敗をしたあと、なにもなかったかのように その場を取り繕うことがある。 けんかに負けたオス猫なんかは心が傷ついたのか そのあとずっとしょんぼりしていたりする。 つまり、多少なりとも賢い動物なら、自尊心を持っているのだ。 そう気づくと、人間誰もが持っている感情は 自尊心だ、ということがわかる。 だって動物でさえ持っているものだからね。 とまあ、哲学はそんなことを話しているわけだ。 何が言いたいかというと、哲学は世間で思われているような 何らかの思い込みみたいなものではなくって 指摘すれば誰もが「ああそうか」と思うような そういうことを議論している、ということだ。 一見あたりまえのことでも、指摘されないと 気づかない、ということは案外多い。 というかそんなことばっかりだ。 哲学とはそんな当たり前のことを指摘して、気づかせる、...

哲学が求める知

哲学(フィロソフィア)とは、知(ソフィア)を 愛する(フィロ)という意味の言葉だ。 日本語でも、もともとは希哲学と言っていた。 意外に思えるかもしれないけれど、 知を愛するということは、知性を愛する、 ということではない。賢くなる、頭がよくなる、 そういうことのために哲学があるのではない。 哲学は知を愛するのであり、 それ以外の何ものもとくに愛さない。 では、ここで言う知とは何か。 それは知識だろうか? そうとも言える。 いろんなことについて知ること、 それを愛することが哲学である、 そういう気もする。 しかし、ほんとのところ、 哲学が対象とするのは 「知識(connaissance)」とは呼べない ある何か、なのである。 知識ではない、哲学が求める知、 それは何だろうか。 しかも、それは、とくに頭をよくすることもない ものである。そんなものがあるとして、 一体それは役に立つのだろうか。 知識は役に立つ。 知識は人生や社会や経済なんかを 豊かにする。とても役に立つものだ。 知性、あるいは頭の良さもやはり役に立つ。 学校や会社で成功する、あるいはビジネスで 成功するのに頭の良さは役に立つ。 ところが、哲学が探し求めるものは、 そうした意味では役に立たない。 それは何かについてはっきりした知識を 与えるというよりかは、より物事を混乱させて みさせるものかもしれない。 そうしたことの探求に乗り出すのは、 知性的なことではなく、むしろ愚かなこと なのかもしれない。 ところがしかし、知性によって探求される ものでもない、そして知識として役に立つ のでもない、哲学だけが求める知、 というのがあるのだ。 その知がどんなものであるのか、 これからそのことについて、少しずつ、 ゆっくりと語っていきたい。

はじめに

子供は、言葉を早く覚えます。 人がしゃべっているのを聞いているだけで、 子供は精確な発音ができるようになってしまいます。 ところが、大人はそうはいきません。 ぼくは日本語を教えた経験があるのですが 歳をとるほど新しい言葉は覚えにくく 発音も学びにくくなります。 つまり、子供の方が大人より優れているんです。 ちょっときつい言い方になりますが、大人になると いったん覚えてしまったことが固定化してしまって 新しいことを学んだりすることが難しくなります。 言葉だけでなく、ものの見方や考え方もそうです。 一端身についた思考法や価値観を変えることは難しい。 子供のときには、少しずつ変えていっていたはずなのに。 同じことを別の言葉で言い換えてみましょう。 子供の時にはいろんな可能性をもっていたのに 大人になるとそれが選択されてきて、少なくなる。 子供の時には、無数の言語、無数の思考、無数の人生 それが可能だったのに、大人になるとそれぞれ 一つしかもてなくなっている、そういうことです。 けれど、こういった言い方には少し違和感を覚えることでしょう。 「大人になった今の方が、いろいろものを知っているし 子供のときなんかより圧倒的に豊かだ」 そう言いたい方もいるでしょう。 そのとおりです。 大人は無限の可能性の代わりに、具体的な人生をもっています。 それはもしかしたら、単なる可能性より豊かなものかもしれない。 でももし、大人の具体的豊かさと、子供の潜在的な可能性を どちらも手にすることが出来たら・・・ もしも、大人になったいま持っている知識や能力を その豊かさを保ったまま、 子供の時のなんでもありの可能性に もう一度還元することができたら・・・ いまある有形のものを、無定型のかたまりに戻すように シャッフルしてみたらどうなるか・・・ 大人は子供の時に持っていた可能性を形にしているのですが それをいったんバラバラにして卵のなかにつめこんでみる。 すると、なにがでてくるかは分からないものの、 そこにはいっているのはただの可能性ではなくて、 具体性と豊かさを備えたある未知のものになるわけです。 といっても、それはできあがったものではなくて、 まだなんだか分か...